FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

12月8日と亡父

今日が何の日か知らない若者も増えているらしい。。

ジョン・レノンの命日でもあるが、今から68年前、昭和16年の今日、日本は米英との戦争を開始した。私の亡父はその開戦の前から陸軍に召集されていて、主に事務や会計等の非戦闘員的な任務についていた。四国の高松が出身地であった父は、同じ香川県の善通寺で、後にこの太平洋戦争では国内第一号になる捕虜収容所を建設、及び管轄する部隊に従事していた。当時父は30才で既に結婚していたが、母の話によると、収容所の建設はその年の夏ごろから始まっていたらしいので何をか言わんやではある。日本は、第一次大戦でドイツ兵の捕虜を収容した経験があったとは言え、実際に開戦してしまってからの現場は、さぞかし大変な事だったろうと想像できる。

日本軍は、真珠湾攻撃とほぼ同時に、フィリピン諸島にも攻撃を加え、グアム島、ウェーキ島等では、民間人を含む多数の人々が捕虜として捕らえられた。善通寺捕虜収容はそれらの人々を迎える事になったが、軍艦で運ばれた捕虜達は、翌年の1月15日に香川の多度津港に着いた。小雨の降る寒い日の深夜で、母によると、家を出る時に父は腹の具合が悪かったらしい。戦後の父親としての姿しか知らない者としては信じ難かったが、父は英語が出来た様で、正式な通訳も居られたが、その後捕虜と日本軍との間での交渉事や、捕虜達の世話など様々な経験をする事になる。

我々はみな、その後この戦争がどんな悲惨な事になったかをよく知っているはずだ。
「バターン死の行進」等、外地での捕虜に対する酷い扱いがあり、内地でも戦渦が進んで行った時、各収容所は劣悪な状態に陥っていった。ただ、この善通寺収容所は、プロパガンダとも呼ばれて、元々、模範的にやっている事を世界にアピールする目的もあったようで、まだ開戦間も無かった事もあり、双方共に(特に捕虜の方々)比較的大らかな雰囲気があったと思える。アメリカの新聞社のクルーが入って、ニュース用の撮影をしている様子など、残された写真や様々な文章からもそういう雰囲気が感じられる・・、実は、父のここでの仕事は約1年余りで終わり、別の任務に就く事になるのだが、どういう訳かその間の多くの資料を家に持ち帰っていて、戦後は全く手をつける事もなかったそうなのだが、今も多くの写真と共に家に存在している。
zentsuji20receiving20gift.jpg
Zentsuji20camp20information20file.jpg


写真については、小さい頃から時々母に見せてもらっていて、凄く気にはなっていた。一枚一枚がまるで映画のシーンの様に思えて、欧米文化に憧れていた事もあり、子供心に、この人達だけは日本が戦火にまみれた頃までに、無事に本国に帰っていて欲しい、と強く願っていたものだった。その後は、いたずらに月日が過ぎていってしまったが、10年程前に、写真と共に数多くの資料もある事を知ってからは、何とかその保存に努めなくては、と思うようになった。日本で戦時中の捕虜収容所についての研究家(残念ながら非常に少ない)の方々にもお見せしたが、これだけの資料が残っている事は珍しいとの事だったので、時間がある時にコピーを取ったり、ファイルにしたりの作業をしているが、日常に追われてままならない。古い紙の印刷物はどんどん朽ちていくので、何とかしなければと焦るばかり。ちなみに捕虜関係のサイトは米国をはじめ海外の方が多いが、日本人の研究者達の作ったサイトもあるので、少しでも関心を持って頂けると嬉しい。http://www.us-japandialogueonpows.org/index-J.htm

ところで私は、子供の頃はもちろん、大人になってからでも、こういう物が家にある事を
他人に話した事はなかった。口外してはいけない事、と思ったことは一度もないが、この事を話して自分に良い事があるとは思えなくて、むしろ逆の恐怖感もあった。その禁を初めて破ったのは、音楽仲間のAさんと雑談をしていた時で、何も抵抗なく「・・な物が家にあるんです」と話したら、Aさんにえらく興味を持って頂いた事がきっかけで、それまでよりも熱心に資料を調べたりする様になった次第。我々の興味を惹く話としては、捕虜の動向を綴った戦時中の新聞の切り抜き(父はこれらも多くスクラップに残している)の中に、「捕虜の○○はヴァイオリンやギターを持ち出して、陽気なヤンキー音楽をやり・・・、」との記述を見つけた事。カントリーか、はたまた可能性は低いがアイリッシュ?

話を戻すと、今回この様に公表したのは、親父が亡くなった歳もとっくに過ぎて、そろそろこちらも持ち時間が少なくなってきた事もあり、戦争の風化が懸念される現在、こういう史実を残し、伝えていく事への責任が重大になってきたと思えたから。

父は、私が小学校一年の時に亡くなってしまったので、物心ついてからの交流が殆どないままだったけど、こういう資料を調べる作業をしていると、父が身近に感じられるようになった。大本営向けの公式文書が殆どだが、父の手書きのメモや、英文の下書き、一番興味を持ったのが、主観を交えた雑文の様なもの。当時、ある程度世界情勢やら、視野を広く持てた人達にとって、開戦に際しての気持ちは複雑だったろうと想像してしまう。多分一般市民なのだろう、グアム島で捕らえられ、恋人達と共に善通寺に連れて来られた若者が綴った1ヶ月半程の日記を、父が翻訳して残しているが、常に恋人への思いをあからさまにする彼の事は、明治生まれの父にどう映っていたのだろう?。敵同士という事で制限は思いっきりあるが、異文化と初めて交流する新鮮な驚きが、上記以外にも、様々な文章や写真から感じられる。今回、興味を持ってくれる方がおられたら、その様々な資料を見てもらう機会も設けたいとも考えています。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。